彼を、語る…

みなもと太郎先生インタビュー
「あすなひろしを巡って」(2001年1月)

 あすなひろしファンならば、E-mangaに寄せられたみなもと太郎先生の追悼文の迫力の前には、誰しも溜飲の下がる思いをされたことでしょう。2002年1月、私たちはそんなみなもと太郎先生のお話を聞くため新宿某所に伺いました。

つい先ごろ「風雲児たち」が復刊されるなど、みなもと太郎先生の作品は根強い人気ですが、「お楽しみはこれもなのじゃ」もまた、先生の漫画研究家としての側面が遺憾なく発揮された名著であり、是非重版が望まれる一冊です。

1970年代後半に青春時代を過ごした漫画ファンならば今さら多言無用でしょうが、この評論集の初出となった連載雑誌は「月刊マンガ少年」。この雑誌の1977年5月号には、あすなひろしも「青狼記」をもって誌面に登場しています。偶然なのか、この号の「お楽しみは・・・」で取り上げられているのがあすなひろし氏で、みなもと先生いわく「じっさいに出会った第一印象のあすな氏は六尺の身体たくましく(中略)どこかの組のヤーサマをおもわせ・・・」。

さて、話はこの一冊から始まります―。

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三十年以上前の自家製作品集に見入るみなもと先生

(あすなひろしの作品のすばらしさを三人で話しながら)『こんなこと話できる相手がいないからねえ!』

お手元の作品集が、雑誌から抜いて表紙で綴じ込み、あのロゴをまねて一冊一冊手作りしていたものです。

みなもと太郎先生
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―(たかはし、くだんのマンガ少年の記事をみなもと先生に示して)入院中だったあすなさんをお見舞した時にこれをお見せしたら、「これ太郎ちゃんが書いてたのか」っておっしゃって。

じゃあ、あすなさんは読んでいてくれたんだ。(笑)

註:「とにかくボクは漫画家の中で一番「漫画家らしくない」風貌 ―なのだそうで」というモノローグでいきなり始まる「実録すかんちん物語」は、作者の身の回りで起こったそれにまつわる珍騒動を綴ったエッセイ風の漫画で、上記の記事から触発された作品とおぼしい。(ポンピドー記)

(みなもと先生が持参された小脇に抱えるにはやや大きいバッグに詰め込まれた、二十冊におよぶあすなひろし作品を綴じこんだファイル。それらの多くはみなもと先生ご自身により製本され、表紙には丁寧に題字のレタリングがほどこされ、それをめくればさらに目次まで付けられている!)

―(驚嘆しつつ)この頃はワープロなんて無かった時代ですが、この目次はわざわざ和文タイプで作られたものなんですか?

そう、俺が3ヶ月だけ勤めてた会社で、宿直で誰もいない時にひと文字ひと文字、カチャーン、カチャーンと打ってさ。(「さざんかの咲くころ」を表題にしたファイルを見て)俺のコレクションはこのへんから始まる。

―絵自体、当時ここまで洗練されてたというのは・・・

無い無い、他の漫画では。だから本当は雑誌ごと残しておけば、他の作品と比較してどれだけ飛びぬけていたかというのが良く判るんだけどね。この(扉の)セーラー服でも、長袖で白というのが当時は新鮮な驚きだったなあ。白ければ半袖、黒ければ長袖っていうのが普通だと思ってたから。

―これが問題の「おどり子人形」・・・。

そう、当時の担当がこんな品のないロゴにしやがって〜! (原題の)「流れ星、ひとつ」というロゴは俺見てるからね、それをつまんないタイトルに変えられて。

―この構図!(「水色の風の中で」)

そりゃそれを言い出したら、もう・・・。少女漫画の扉はこうでなきゃイカン、みたいになっていたのはこのころの作品の影響だよな。デビュー時代の24年組はみんなこの構図で必ず一本は描いてるよな。

―バックの花びらとか?

バックの花だけなら誰でも描いてたけど、風に花びらを散らしていたのはあすなさんだけだったよな。

―「オンディーヌ」は水野英子先生との合作・・・あと「ミルタの森」というのも。

合作が2作ってのは水野英子さんも証言してるから間違いないね。水野さんの他の作品にも、背景がほとんどあすなさんみたいなのがあった*。水野、あすなの頃までの男女の愛というのは価値があったんだけど、(以降の少女漫画では)どうもそれが失われていくんです。

*註:「こんにちは先生(ハロー・ドク)」(1964年)など(みなもと先生註)

―「おとうの貝」。この頃はもうマーガレットでコンスタントに作品を発表するようになってますね。

これ、ボーイフレンドが主人公の腰にこう手を廻してるでしょ? これは十代のぼくには衝撃だったな。少女漫画でこういうのを見たことが無かった。自然にやってるでしょ、それにびっくりしたな。当時の少女漫画がどんな段階だったかということも何となくわかるよね。そんな場面はありえなかったわけだから。それをこんな小さなところで当たり前のように描いている。まあ、あすなひろし、ちばてつや、水野英子の三人が少女漫画をぐーっと文学にしたんだね。だからそういう意味では、後続の西谷(祥子)氏と24年組がどういう仕事をやったかというような問題はもう一遍論じ直せと言いたいんだよ。

―(「ジュニアコンパクト」を手にとり)これが「嵐が丘」掲載・・・というよりも、それだけで丸々一冊分ですねえ? (さらにパラパラとめくりその緻密さに我々は息を呑む。)

この、頭とラストの部分だけウスズミを使って、あとは活版。これはもう、本屋の立ち読みで震えますね。これ(「ジュニアコンパクト」)は、当時集英社とかがB5判の文学全集をさかんに出していて、それを漫画でやろうした企画だったみたいだけど、これ一冊で終わってしまった、この後B6版の「りぼんコミック」がその流れで出たんだけど、やっぱり長続きしなかった。これには峯岸ひろみ氏も載っているけれど、(他の漫画家も)あれもこれも全部、このあすなさんのタッチに影響されて、みんなそれ風に描こうとしてるでしょ? 牧美也子氏にしたってそう。構図から何からあすなひろしに学んでて、同じよ、やり方が。

―「りぼんコミック」では読みきり大長編であすなひろしさんはレギュラーの印象がありました。このあとまた「ジュニアコミック」と改題されますがまもなく打ち止めに・・・。「俺の作品を大きく扱った雑誌はたいてい休刊する」なんてあすなさんは仄めかされていました。そもそもデビューした「少女クラブ」も二年ほど休刊してしまいましたが・・・これ(「ちいさな橋の上で」)はそういうかなり初期の作品ですよね?

画風を確立する以前の作品だね。確か少女クラブの別冊付録で。ちばてつや作品の巻末だったかな。それからしばらくして一度筆を絶ってたのかな。

―ええ、そうおっしゃってました。一年くらい。その間に船に乗ったりいろんな仕事をされたそうですが。

そのあと、この華麗な画風で再デビューするんだよね。だけど、もうこのフロク時代から自分の(名前の)レタリングはちゃんと決めている。

―あのおなじみの「あすなひろし」のロゴデザインは、デビュー作(「まぼろしの騎手」と「南にかがやく星」)からすでに出来ちゃってますね。

「あすなひろし」っていうペンネームの由来は何かあるのかな?

―直接聞いた限りでは、少女雑誌向けの名前にした、といったようなことで、なんとなく言葉を濁してしまった印象でした。デビュー作の「まぼろしの騎手」では川本(コオ)さんの名前も扉に記されていますので、“ひろし"はここからとったようにも私(ポンピドー)には思えるのですが・・・ (たかはし、そこでE-mangaでの川本コオ氏の追悼文をみなもと先生に示す。)

(当初「あすなひろし」とは川本氏との共同ペンネームだった、というくだりに目を通しながら)でも、川本コオ氏は自分からとったとは書いてないよなあ。

*註:その後、ご親族の方から、「ひろし」とは漫画家として上京した頃に居候させてくれていた恩人の名前にちなんでの命名だった、という証言をいただいた。(ポンピドー記)

―後年あすなさんは川本さんと袂を分けられたような印象でしたが。

そりゃ、川本コオは粗暴だもん。(笑)とにかく酔ったら人を背負い投げにしなきゃ気がすまない。俺にだってヘッド・ロックかけるんだぜ。(笑)

―でも、あすなさんだって相当な豪傑でしょう?

まあそうだよね。川本コオとわたりあえるのはあすなひろしさんぐらいだった。(笑)確か、川本氏のまだ可愛いヨチヨチ歩きだった子供を、仕事のジャマだって庭先に放リ投げたのはあすなさんだったと聞いたことがある。

―ひぇ〜っ! その川本さんが大活躍していた青年漫画誌の草分け「コミックmagazine」などで、あすなさんは「臼杵三郎」という名前で作品を発表していますが、当時はペンネームを改める考えでいらしたようです。

(先生、「コミックmagazine」からの切り抜きを出して)これが臼杵名義のだよな。(「獣の熱い息」)これがもう・・・! この時代に、こんなたたみかけでストーリーを描いていく作家なんて誰もいなかった! 当時はまだ読切に頁をさくということがまだ思想的にないから、これだけの短い中に内容を埋めたわけでしょ。この頃はそれで平田弘史氏なんかも苦労してるし、とにかく真崎守氏にしたってね。 ―「コミックmagazine」については「お楽しみ」に俺ちょっと書いたけども、これ、真崎氏が自分の名前出さずに全部編集していた。当時の編集長(平田昌平だっけ?)に、自分の好きな作家ばっかり集めて、自分自身は名前を伏せて描くってことでOKもらったらしいんだよ。

―こんなふうにネームで説明を増やさざるをえない、というわけですね。あすなさんの話によると、まず最初にフキダシの位置やネームの行数をきっちり決めてから絵にとりかかったそうです。

うん。ネームが絵になるかどうかって位置を探すんだろうな。

―この2色刷りの「しろがねの雪」や「花と十字架」はA4判なのですが、何という雑誌に・・・

これは・・・「なかよし」の別冊か増刊? どっちかは吉森みき男氏がデビューした号のはずだから、彼にきけばわかるんだけどね。(笑、他の切り抜きを見ながら)何の雑誌の何年何号かということぐらい書いておけばね。そういうことの大事さをこの頃はまだわかっていなかったから・・・

―いえ、こうして保存しておられるだけで充分素晴らしいことではないですか。私(ポンピドー)などは単行本が出たらすぐ雑誌は捨ててしまっていましたから。

雑誌の方がはるかに貴重だということにみんな気付いたのはずっと後だからなあ。でも、このへん(60年代作品)はもう単行本にならないという予感があったから、こっちも必死になって集められたけどね。

―こういう細かい背景を描いているところを見た或る有名漫画家から、「そんなの何故アシスタントにやらせないでわざわざ自分で描いてるんだ?」と言われて憤慨したとおっしゃってました。

だってあんな線引けるアシスタントいやしないんだから。確かあすなさんが全部下書きして川本コオ氏がペン入れした作品があったけれども、それはやっぱり差が出る。もっとひどいのはあすなさんの下書きに高 S太郎がペン入れやったというのがあったんだよ、そりゃもうメチャクチャだったよ。

―それはどちらの名義で発表されていたんでしょうか。

高S太郎の本名で発表してたと思う。青春モノばかりを集めたシリーズが貸本時代の末期にあって、それの巻末に載っていたんだけど、高Sはあのギャグタッチだからなあ・・・これはさすがに俺も貸本屋で見てびっくりしただけで持ってないんだけどね。

―ジャンプ掲載の「砂漠の鬼将軍」では、巻末の作者コメントで「超有名漫画家が手伝ってくれた」とありますが、これは果たして・・・

(途中のページを見て、即座に)これは宮谷一彦。間違いないよ。まあ宮谷氏ぐらいじゃなきゃ、あすなさんは絵をまかせないよ。

でも、あすなひろしっていうと俺らは当然のようにトップだと思っていたんだけど、世間ではそれほどと思ってなかったところもあったのかもね。俺があすなひろし作品に夢中になってたその時代に、他の少女漫画好きの女性とかに話をきくと、「きつくて好きになれない」みたいな返事が返ってくることが多かったな。シャープ過ぎて人間のぬくもりが感じられない、というような拒否反応を示されてしまったような気がする。もっとポヤっとしたようなのが好きだったんだろうね。

―やはり表現が突出していると受け入れられにくいというか。

天才は理解されないのです。(笑)

―その点、あすなひろしって不思議な作家だと思うんですよ。唯一無二という画風を持った作家ですと、一般受けしなくともマニアからは支持される傾向があるんですが、実際はそうでもない・・・

つまり作家の追求している方向を、読者は別に求めてないってことでしょ?

―いっぽう物語の方となると、俗っぽいというほどではないにせよ、一部のマニアに向けたようなものではなくて・・・

うん、ストーリーはわかるお話だしね。絵はマニアックであっても。だから、かえって宮谷一彦や大友克洋みたいにストーリーすらもわからなくなってしまえば、「何が言いたいんじゃ、コレ」みたいな議論をしたいがために喰いついてくる“エヴァンゲリオン現象"も起きるんだけど。・・・でも、「呪啼夢」をやった場合はソレと違うんだよね。あれはやっぱり、あすなひろしが(原作者の)宮田雪に掻きまわされてしまった―ふり回されてしまったというような気がして痛々しいもの感じる、俺は。

―そういえばあすなさん自身、俺は原作モノはイヤだ、って言ってました。

そうでしょうよ、当たり前だア。

―「海を見ていたジョニー」を描いた時も、「アクション」側からの企画だと知らない漫画家たちから、今さら五木寛之作品の漫画化など、というような中傷が耳に入って、非常に不愉快だったそうです。話は変わりますが、売れっ子でしかも絵が個性的な作家だと、必ず絵柄をそっくりコピーした新人が現われたりするんですけど、あすなひろしに関しては私たちはそういうエピゴーネンを拝見したことがありませんが、何故・・・。

いや、あすなさんに関してだってたくさん出たんじゃない? 今日は持ってこなかったけど、あすな調を真似した作家を何人か家でピックアップしてくることはできますよ。

―名前は・・・今でも活躍してるぐらいの・・・

うーん……。そこそこまで迫った奴はいるけれども。「ビッグコミック」あたりに何人か描いた作家はいるよ、「あすなひろし」そっくりさんで。ただ、"まねし"は所詮"まねし"のレベルでしかなかった。

―真似できるような性質のものでは無かったって事で。

俺もそれだけファンなんだからあすな調というふうな作品はあった。「JOTOMO」(「女学生の友」)でも2、3回描いている。俺が「JOTOMO」の仕事してるときは、担当がまだ漫画のことをまったく知らなくて、漫画の短編載せるならあすなひろしを入れるべきだなんて俺はサワイでいた。で、そんなことを言いながら描いていたら、俺は降ろされてあすなさんの漫画が入ってきた。(笑)・・・確かこの話は(後日)俺があすなさん本人にして、「ウワ、太郎ちゃん、そりゃ悪かったね、へっへっへっ」みたいなことを言われた気がするけれども。・・・まあ、それで降ろされた時が、やっぱり俺自身が漫画ファンから漫画家になる転機となったんだよな。漫画家である以上、いくら好きな作家がいるからって真似しててもしょうがないわけで、自分の画風を見つけなきゃならないということに気づいたのは大きいよね。俺にとってはそれがひとつのターニングポイントにはなってるわけよ。「ホモホモ7」の1年前くらいの話かな。

―「ホモホモ7」でも、主人公とかは私たちの思い浮かべるところのみなもと調なんですが、女の子のキャラだけは少女漫画タッチでしたよね。

そりゃあ、18の時にあすなさんに会いに行くくらいで、デビューだって「りぼん」だったし。だけど、あすなひろしはとてもマネできるレベルじゃないからもっとヘタな少女漫画をマネしようということで。それが21,2歳ね。

―僕らとしてはその「ホモホモ7」のおかげで、みなもと先生のお名前の方に早くなじんでいました。少し前の「少年マガジン」には「北極光」が載っていたりもしたんですが。そういえばその後も「マンガ少年」、「コミックトム」など、あすな作品とみなもと作品が一緒の雑誌に載ることは多かったですね。「明星」に毎号載っていたスターの「まんが履歴書」、これもあすなひろしさんとみなもと先生がよく描かれていましたし。

ああ、俺は5、6回描いたんだけど、山口百恵の回の依頼を断わったのが今でも悔やまれる!(一同、笑)あの時だったら本人に会えたんだよな〜、フィンガー5の時だって取材で会いに行ったしね。山口百恵の時は「そんな歌手知らんから描けないよ」って断わったんだ、そしたら直後に大ブレイク。結局あの時は叶バンチョウ氏が描いたんだっけ。・・・あれ(「まんが履歴書」)は最初に写真をどこに入れるというのがまず(編集側で)決まってて、その間にある漫画の流れを壊さずにどう構成するか、ということに頭を使うのがパズル的で楽しかったな。だから嫌な仕事じゃないのよ、割合に。

―毛色の違った仕事としては、ハヤカワ文庫でムアコック作品のカバーや挿絵を手掛けてました。一時、ハヤカワではカバー・アーティストとしてさかんに人気漫画家を起用していて。

うん、「ジェイムスン教授」に藤子(F)不二雄とか、「ノースウエストスミス」に松本零士とかね。あのテはさし絵でずいぶん買ってるよ。でもあすなさんのやってる(「蜘蛛の王」)のは買ってなかったな。・・・1980年代以降のは俺、ほとんど持ってないんじゃないか?

―そのあたりからは逆に私たちの領分になってしまうのかも知れませんね。自分たちの世代にとっての「あすなひろし」は、青年漫画も少年漫画も同じ絵柄で統一されるようになった頃の、あの絵なんですよ。で、70年代以降になると漫画雑誌以外のどんな雑誌にも漫画が載るようになってしまうので、発表作品がかえって掴みにくくなっています。婦人雑誌や音楽雑誌までもチェックを入れなければならない訳で。

そう、「レコパル」とか音楽雑誌にもあすなひろし描いてるね。

―活躍した領域が広すぎて誰も全体像を把握できないことも、語られにくくなっているひとつの原因ではないかと。

だからね、漫画家って何でも描いて当たり前だと思ってた最後の世代が俺らだったからね。俺らの先輩漫画家のトキワ荘とその同世代も、その上だった夢野凡天とか山根一二三とかいう人たちも、ギャグとシリアスの描きわけは当たり前。太田じろうは少年誌でお相撲さんの漫画を、幼年誌では「こりすのぽっこちゃん」を、「りぼん」では可愛いのを描き分けて、高野よしてるは「13号発進せよ」を描きながら、一方でちゃんとギャグも描いてたわけだ。そういうふうに、何でも描けますっていう作家しかいなかった時代だから。漫画家になるっていうのはそういうことなんだと思ってデビューしてみたら、何かやたら専門化が進んでるんでアレッという気分になったのが俺らの世代なんです。「じゃあ、少女漫画を描けなくても漫画家でござい、で許されるんだ!」というような思い。今の人からみたら逆かも知れないけど。(笑)

―あすなさんも晩年に大長編の構想を暖めておられて、これが“抒情派"漫画家あすなひろしのイメージを覆してしまうような壮大なスケールのSFだったようなんですね。入院する間際まで何度もネームを推敲されていました。1980年代後半に一部ペン入れされた原稿もありましたが、「描いてるうちに絵が変わってきてしまって続かない」と嘆かれていて。

アルコールで手が震えて描けなかった、とも聞いてたんだけど、そのあと克服していたんだね?(ため息)やっぱり酒が縮めたんだろうなあ。「キャシーといっしょに!」とかを描いてた頃、当時のサントリーの"ダルマ"ね、あれがみるみる無くなっていくんだよ。顔にも出ないでストレートでぐいぐいやりながら描くんだから、そりゃ無理したんだよ。・・・潮出版社が毎年くれるこの手帳、この手帳の巻末の住所録(五十音順)のトップはいつも「あすなひろし」だったんだよなあ・・・。今年からそれがなくなったのは悲しいねえ。

多忙の中をぬって会見に応じて下さったみなもと先生には、この場を借りてお礼申し上げます。

最近「BSマンガ夜話」など、斯界の識者による漫画史の分析が盛んですが、発表された当時の読者の視点に立ちかえることで、今一度漫画史は読み変えることができるのではないか・・・という可能性をみなもと先生のお話から感じました。それによって、現在語られることが多いとは決して言えないあすなひろしの業績にもいつか光が当てられるであろうと信じてやみません。

きき手/たかはし@梅丘&ポンピドー
構成・文責/ポンピドー

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